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    永原としひろ 47歳

                            ・現 木更津市議会議員
                            ・現 木更津市青少年相談員連絡協議会 環境浄化部長
                            ・現 千葉県青少年相談員
                            ・現 清見台南5丁目Yぷれ!代表
                            ・現 千葉県交通安全推進隊 隊員
                            ・前 木更津市PTA連絡協議会 副会長
                            ・前 木更津市青少年問題会議 理事 (議長:水越市長)
                            ・元 清見台小PTA会長 (平成17年、18年)

                            ・清見台小、太田中、木更津高専電気工学科 卒
                            ・株式会社日本電気通信システム
                            ・株式会社SONY木更津
                            ・さくら学院 経営(現在)


NOBODY IS PERFECT 布袋寅泰  (歌詞)

  完璧な人間なんて居ない、だから力を合わせるんです。
  昨日と同じ人生なんてつまらない。
  一緒に変化を求めませんか? 変化を恐れることなんてないと思っています。
  人生は、一度きりなんです。  (記 永原としひろ)




 
永原 としひろ の遍歴

1964年(昭和39年) 0歳 東京都葛飾区で生まれる。

1969年(昭和44年) 5歳 千葉県君津市貞元へ転居。
               地元貞元小学校へ入学、近くの養豚場で遊んだ記憶があり。
               おやじが風呂の蓋板で舟を作り、小糸川の支流で浮かべて実験するも
               板の節が抜け浸水。母が風呂板を無くしたおやじを激怒した記憶あり。
               この頃、妹が生まれる。

1971年(昭和46年) 7歳 木更津市高山台ハイツ(当時、中尾、農住団地)に転居。
               清見台小2年に編入。
               小学時代は缶蹴りをした記憶ばかり。
               頂いてくる通知表にはいつも生活欄に「落ち着きが無い」と記載。

1977年(昭和52年)12歳  太田中学校へ入学。
               当時の太田中学校はプレハブと体育館だけ。
               暑さと寒さが厳しかった学校だったはずですが記憶無し。
               学校ではバレー部所属。
               逃げ足早く、短距離走、長距離走とも得意でした。
               特に長距離では1度だけ、校内1位になった記憶あり。自衛隊の駅伝にも出場。

1980年(昭和55年)15歳  国立木更津工業高等専門学校 電気工学科 入学。

1982年(昭和57年)17歳  父、利郎が亡くなる。(享年41歳)
               父と生活できた期間は短いですが、とてもたくさんの経験をさせてもらいました。
               父から学んだ事は、学校で学んだことよりも、遥かに貴重なものでした。
               不思議なもので私の名を呼ぶ「父の声」だけは、今でも鮮明に思い出せます。

1985年(昭和60年)20歳  NEC日本電気通信システム 入社。
               D70と言う電話交換機、LSIの設計を担当。
               交換4社(NEC、富士通、日立製作所、沖電気)の技術者と共に、
               NTT武蔵野研究所に通っていました。
               当時開発のデジタル交換機がここ数年、ようやく木更津にも設置されたようです。

1993年(平成5年) 28歳   NEC日本電気通信システム退社。
               妹の結婚を機に一人住まいとなる母の面倒を見るため。
               同年、地元勤務の約束でSONY木更津に転職するも、勤務地が東京本社研究所となり
               地元に戻った意味が無いと判断して、1年で退社。

               この時から町内会理事、議長などを受けるようになります。
               おやじを早くに亡くしているので高齢の母を町内会の役に押し出すのが忍びなくて。
               きっとおやじが生きていれば、おやじがこの仕事を担当していたはずと思って。

1995年(平成7年)30歳  現在のさくら学院前身となる「PEM数学専門家庭教育センター」設立。
               数学を中心とした家庭教師で生活を支えました。

1998年(平成10年)33歳  長男、駿太郎が生まれる。
               命名に当たってはたくさんの本を読みましたが、
               画数が同じでも本によって書かれている内容が全く異なることに気づき
               画数などで人の人生など決まるはず無しと判断。
               大好きだった映画「風の谷のナウシカ」監督、宮崎駿先生の1字を頂戴しました。
               当初は「駿(しゅん)」と言う候補でしたが、生まれてきた我が子を見て
              「何か違うなぁ・・・」と感じ、届け日の朝に「太郎」を付け足して
              「駿太郎(しゅんたろう)」としました。
              
               甲斐性の無い我が家に生まれてきた不憫な駿太郎ですが、
               私のおやじが私に与えてくれた「経験」をそっくり経験させてやろうと誓ったのもこの頃です。

               お金を使わずに経験できることは腐るほどあると思います。幸い自営業のため時間はあります。
               中でも名付けて「貧乏旅行シリーズ」は、子どもが楽しめる冒険心いっぱいの企画です。

               駿太郎は言葉での説明が上手くなく、小学低学年頃は良く友達に口よりも先に手を出していました。
               何度も学校に呼び出されては謝り、相手のご父兄にも謝罪をしています。
               全く持って私の子どもの頃と同じです。(ご迷惑をかけた皆様申し訳ございません)
               おやじが自分のために謝る姿を見て、子どもは反省をするものです。

               ある日、駿太郎は友人に対して「同じ過ち」を犯しました。

               同じミスを同じ叱り方で注意しても効果は薄いと思い、
               駿太郎と地図を見ながら、偶然を装って「永原駅(滋賀県湖西線)」を見つけ出し
               「よし!今から行こう!」と各駅電車で行ったこともあります。
               途中の米原駅で食べさせた「立ち食いうどん」の旨さは父、利郎に教わりました。
               同じ旨さを駿太郎に味合わせたかったのも理由のひとつです。
               道中、たくさんの会話も出来ましたし、駿太郎の経験値も上がったことでしょう。

2002年(平成14年)37歳  次男、優大が生まれる。
               優大の命名はすんなり決まりました。
               「優しい人」に育って欲しいと言うことと、後付ではありますが長男駿太郎の「駿」と繋げると
               「優駿(ゆうしゅん)」、優れたるものという意味になります。
               奇跡の偶然が重なって、兄弟となった二人。
               一人では「優れたる者」にはなれませんが、二人が力を合わせ、更には人様と協力することが出来れば
               真の優れたる者になれると信じて命名しました。

               しかし一つだけ悔しいのは、優大が英語圏で自己紹介をする時を想定していませんでした。
               「優大」は「you die」に聞こえます。
               優大には英語で自己紹介をする時、本来の意味を補足説明できる英語力を付けるように
               指示を出してあります(笑)

               7歳の今、それを告げると「いえっさぁ〜!」と笑いながら応えているの大丈夫でしょう。

2004年(平成16年)39歳  駿太郎が清見台小に入学。
               当時の清見台小学校校長は、中学時代の恩師、平野寛先生。
               平野先生には当時大変な心配ばかりをお掛けしました。(何度叱り飛ばされたことか)
               親子2代に渡って、同じ先生にお世話になるのも稀有な縁。

               1年間清見台小にボランティア登録し、毎週金曜日に地域の方々と枝を切っていました。
               この1年が今後の私を大きく変える事となります。

2005年(平成17年)40歳  清見台小PTA会長となる。
               全く予期せぬ出来事でした。
               前年度小倉会長から依頼と推薦を頂いた時、PTAの意味も知りませんでした。
               PTAに参加したしたこともありませんし、通常であれば副会長が持ち上がる職位。
               一度は辞退申し上げましたが恩師である平野校長先生の薦めもあり就任。
               平野校長先生が退職前2年と言う時期も受けた理由の一つです。
               中学時代にお世話になった先生がそろそろ定年退職を迎える時期、
               PTA会長を受け、精一杯頑張って恩を返さないと時機を逸すると判断。

               まずはPTAの組織を改革。
               通年行事を行うだけでもPTA会員の皆様は大変なご苦労をしていました。
               それに加えて、次期役員の根回しで1年間頭を悩ましている事実。
               当時のPTA執行部やその他の役員さんのご協力で、実務の調査と適切な人員数の把握をしました。

               結果、約500所帯のPTA会員の中から109名の役員を選出していたのでは
               役員のなり手は直ぐにいなくなると判断。多過ぎると言う結論でした。
               異例の臨時総会を開催し、役員数を70名程度に減らし、更に選出の方法を大きく変える提案をしました。

               この年は木更津市PTA連絡協議会の研修委員も合わせて担当しました。
               (木更津市PTA連絡協議会(木P連)は、木更津市内31校のPTA会長で構成されています)

               更に1つは、子どもの安全を守るためのシステム作り。
               PTA会長就任直後より執行部に打診していた「不審者の即時通報システム」導入。
               清見台周辺で起きた児童が被害者となる事件(多くは不審者)を予め登録して頂いた保護者の携帯へ
               即時に流し、注意喚起を行うと言うものです。
               このシステム導入に当たってはPTA会員の皆様や清見台小校長を始めとし、
               木更津市教育委員会、木更津警察署のご理解とご協力も頂けて実現しました。

2006年(平成18年)41歳 清見台小PTA会長(2年目)、 木P連研修委員長 就任。
               この年のPTA活動の目玉は1つ。
               前年度に大きく変えたPTA組織が問題なく機能するかどうかの検証と引継ぎ。
              
               機能検証では特に問題なく、例年の行事が粛々と進められることを確認しました。
               結果、現在(平成21年度)まで同じシステムで役員選定が行われています)
               又、役員引継ぎでは地元自在寺の住職でもある温厚な吉田耳人さんに
               会長職を引き継いで頂く内諾が取れました。とてもホッとし安心できた1年でした。

               木P連研修委員長としては、研究集会で「いじめ」を取り上げました。
               又、例年実施されている研修旅行では、それまで参加人数が110名前後であった旅行を
               研修委員一丸となって手作り旅行に変え、180名ほどの参加が出来る旅行としました。
               参加費用も例年よりも少額で済むように皆と研究をしました。

               加えて、前年度導入の「子どもの安全を守るためのシステム」が以下の賞を受賞しました。
                ・日本PTA会長賞
                ・千葉県PTA会長賞
               この場をお借りして導入に際してご尽力くださった方々にお礼申し上げます。
               老婆心ながら申し上げますが、この賞は私個人が頂戴したものではございません。
               団体として表彰を受けましたことを謹んで申し上げます。

2007年(平成19年)42歳  木P連副会長 就任。
               木P連研修委員会担当の副会長として就任しましたが、
               この年の研修委員長である石垣敦氏が非常に敏腕、かつ関係諸団体との交渉に長けていましたので
               私の出る幕はほとんど無し(笑)
               PTA会長の吉田さん、研修委員長の石垣さんと、素晴らしい方が後任となり嬉しい限りです。

               この年は木更津市青少年問題会議理事にも就任しています。
               水越木更津市長を議長とする会議で、その道のプロフェッショナルな方々が集まる会議です。
               ぽっと出の私は居場所を探すのに必至でした(笑)(何度かは発言もしていますが)
               房総の山間地では青少年(主に高校生)が大麻を栽培している事実。
               そしてそれは自分が使用するためではなく、子ども達を利用する大人が後ろに居ることも勉強しました。

2008年(平成20年)43歳  青少年相談員 就任。
               木更津市生涯学習課からの打診と清見台南5丁目町内会長の推薦で着任しました。

               この年にずっと続けている町内会活動の一環で
               【木更津・夢ふうせん】を企画し、町内の皆様のご理解とご協力のお陰で実施できました。
               以下はお礼も込めてご協力くださった機関、団体、個人をご紹介します。

               木更津市教育委員会、木更津市PTA連絡協議会、木更津市社会福祉協議会、千葉県警、
               木更津警察署生活安全課並びに交通課、成田航空事務所、羽田空港、木更津自衛隊、
               太田中学校区住民会議、木更津市歴史愛好会、木更津市青少年相談員清見台小学区、清見台南5丁目町内会、
               株式会社ハマダ、有限会社長田、木更津ライオンズクラブ、パチンコメトロ、木更津FM(83.4MHz)、
               木更津高専学生、木更津東高校生徒、
               清見台公民館、Yぷれ!役員
                                     (漏れがありましたら平にご容赦ください)

               第1回目は約160名の参加を頂戴しました。
               色とりどりの300個のふうせんが空に上がっていく様子は圧巻でした。
               参加者の中には感極まって泣いている方もいらっしゃり、
               主催者としては僅かですが「夢」をプレゼントできたかと思っています。

2009年(平成21年)44歳  青少年相談員 継続。清見台小PTA広報委員会 所属。

               第2回【木更津・夢ふうせん】を実施。
               230名ほどのご参加を頂きました。御礼申し上げます。

               第1回目は風向きが悪かったためふうせんに付けた手紙は1通も戻ってきませんでしたが
               第2回目は東よりの風で、横須賀、逗子を中心とした各地よりお手紙を頂戴しました。

               PTA活動として広報委員会に所属しました。(委員長ではなく、ヒラの書記担当)
               広報紙本来の在り方を研究してみようと言うのが理由です。
               広報紙は毎年役員が変わり、その年毎に特色ある楽しいものが多いです。
               それぞれの年の役員さんが知恵を出し合って特色ある広報紙を作っていらっしゃいます。

               あくまでも今年は、「PTA活動を広報する」というスタンスで作成しています。
               勿論、保護者が楽しみにされているお子様達の写真も掲載しますが
               メインは「PTA活動の広報」を強く意識した内容となっています。

               広報紙を利用した新しい取り組みとしては、以下の2つです。

                 ☆1:担当を分けました。(木村静子委員長の提案)
                    (1)PTA活動報告班
                    (2)学校行事報告班
                    (3)ボランティア活動報告班
                    (4)研究班(永原はここに所属)

                     特に(3)ボランティア活動報告は「裏方さんに陽を当てろ!」と言うコンセプトです。
                     同じ理由から(2)学校行事班が担当する運動会も通常の写真は勿論ですが
                     ビルダーと呼ばれる「放送委員」「誘導係」と言った影の立役者達にも
                     大きく紙面を割きました。


                 ☆2:行事日程を携帯サイトでお知らせする。
                       とかく行事日程のお手紙をなくす子ども達(笑)
                       ならばと言うことで、学校行事やPTA行事をいつでも
                       携帯で見られるようにしてあります。

                       >> 携帯サイトはこちらを参照してください <<

              
平成21年度木更津市PTA連絡協議会において、清見台小PTA広報紙は31校ある小中学校中で
              最優秀賞(1点)を受賞しました。更に木更津代表広報紙として千葉県PTA連絡協議会広報紙
              コンクールに出品され、そこでも県下1,267校のトップである最優秀賞を受賞しました。
              現在、平成21年度広報紙「きよみだい」は、日本PTA連絡協議会の全国広報紙コンクールに
              駒を進めています。


2010年(平成22年)45歳 
3月28日施行の木更津市議選(補欠選挙)に出馬をしました。
              結果は
14,500票を頂戴できましたが落選です。
              正直悔しかったですが、あの寒い中投票に行ってくださって「永原としひろ」と
              
14,500名もの方が名前を書いてくださったことには、素直に喜んでいます。
              ありがとうございました。
              1年後に、最後にもう一度だけ挑戦する予定です。
              皆様のお力をお貸しいただきたいです。 
              永原としひろ後援会では、随時後援会員を募集しております。
              会費等は一切ございません。ご安心を。 
 fusen@kodomo110.net

              
青少年相談員、継続。(環境浄化部長)

2011年(平成22年)46歳 平成23年4月24日執行 木更津市議会議員一般選挙にて、当選。
              得票数は「1283票」で、28人中26番目。
              1283名もの方が私の名前を書くために投票所に足を運んでくださったことに感謝です。
              その期待を裏切らないように4年の任期を全う致します。

              当選直後の今の思いは

              「驕らず、媚びず、意志を貫いた議員活動」を楽しんでみよう。  でございます。



               長々とした稚拙な文章を最後までお読み下さってありがとうございました。

               事務屋Nは皆様に助けられて、お力をお借りして
               地域の子ども達や大人に「夢と安全」をプレゼントできるように
               今しばらく・・・頑張ってみたいと思っています。





              
そして最終の目標は・・・

               最愛の息子である、駿太郎と優大に「良いおやじだったなぁ」「おもしれぇおやじだった」とだけ・・・
              
               私が死んだ後に言って貰えれば
               私がこの世に生まれてきた甲斐があると信じています。





               写真は私のパソコンのデスクトップに飾ってある1枚だけの壁紙です。



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